今回、タイ国を大きくゆるがした事件で、大打撃を受けたのは個人店主たち。日本人を顧客とする店主も同じく大打撃を受けた。本紙では広告を掲載している店主たちを盛り上げて、元気を出してもらえるよう、ストーリー仕立ての店主物語りを展開する。今回はその第6回目。

店主物語り⑥

「教員の道ではなく、タイに行くというのも・・・」

 そのタイ人、スパチャイと出会ったのは、留学しているタイ人のグループが集まる場であった。東京学芸大に入って1年の秋ごろ、高校からの友人が誘ってくれたのだ。


  それから、明大に通うスパチャイと日本語を教えたり、あるいはタイ語を教えてもらったりと、付き合いが始まる。そしてタイへの興味も徐々にわいてきた。


  川満は、将来は教員になる、というしっかりした目標があり、アルバイトでも小学生の家庭教師などもしていた。しかし、スパチャイは、アルバイトもせず、仕送りだけで暮らしているようだった。中国系の顔立ちで「この人の家はきっと裕福なんだろうなあ」と思っていた。


  大学2年の時、早くも求婚されたが、それぞれ家に帰って相談すると、どちらの両親も猛反対した。スパチャイの母は「長男には同じ中国系に」という譲れない線があった。一方、川満の両親は「そんな、南方の象が歩いている、よくわからないところに娘を行かすわけにはいかない」との理由だった。


  それからお互い、両親を説得させるべく、徐々にひもをとくようにお互いの説明から始めた。スパチャイの親戚なども日本にやって来て、両親とも会うようになった。彼の妹とも文通し、交流を深めた。


  川満は生粋の江戸っ子だが、兄弟も多く、まん中の子どもであったので、「教員という道ではなくて、タイに行くというのもあるのかな」と思うようにはなっていた。
  そして、卒業と同時に日本で入籍し、そのままからだ1つでタイにやって来た。ただ、深くは考えず、タイと日本を行ったり来たり、というように考えていた。


  生まれて始めてのタイ。1968年のことだった。空港に降り立つと、ムッとした熱気に包まれ、そして30人ほどの出迎えがあり、びっくりした。スパチャイの父は当時、バンコクの4ヵ所ほどでホテル経営をしていて、タイに渡った海南系の華僑として、成功している人だった。そのホテルの1つがスクムビットのソイ1にあり、そこに住むようになった。


  連日、あいさつ回りをしたり、観光に行ったりという生活で、料理もしない、そうじもしない、そして仕事もしない・・・・。裕福な家庭環境のため、何もしなくてもよかった。
  日比谷高校の時から生徒会などで活発に動き回る川満は、もの足りない。タイでも仕事をしたい。もっと自分にとっての生きがいを見つけたい。そう思うと、徐々にホームシックにかかっていた。


  そんな時、スパチャイとの出会いを演出してくれた高校の時からの友人が、先にタイ人の警察官僚と結婚していて、タイに住んでいた。その彼女が働いているバンコク日本人商工会議所が、サトン通りの今のバーン・カニタのところに当時あり、日本人会もそこにあって、そこでアルバイトを募集していた。1ヵ月の短期ということで採用された。ちょうど、婦人部でチェンマイに旅行に行く機会があり、若かった川満も連れて行ってもらった。そのチェンマイ旅行の文章をのちに提出すると、「編集員になりなさい」という声がかかり、大学のときに新聞部に所属していて、手書きの文字作成等にも慣れていたため、当時、クルンテープの編集員だった山本みどりから「手伝ってよ」と声もかかった。


  そして、トントン拍子に日本人会の事務局に正式採用され、仕事の場を見つけた。
  普通、タイで華僑と結婚する日本人女性は、しきたりが大変、仕事もさせてもらえない、などの声を聞くが、川満はその点、めぐまれていた。海南系の華僑はサービス業を展開している人も多く、「仕事も自由にやりなさい」という理解があった。


  スパチャイは大手の日系メーカーに勤めたが、5年ほどたって、独立の気持ちが湧いてきて、友人に技術者がいたこともあり、部品の鋳造の会社を立ち上げ、サムローンに土地を買い、工場も建てた。
  しかし、製造する部品を買い取ってもらおうと、日系メーカーと交渉しても、なかなか取り引きしてもらえない。現地の技術者がつくったものは・・・という反応だった。川満も日本人会に働くかたわら、日系メーカーへ営業をかけた。また、スパチャイの父も、軌道に乗るように奔走した。
  しかし、資金繰りがたいへんで、その心労も重なり、父の体調が悪くなり、2週間のちに亡くなった。


  それで、事業はやめて、長男のスパチャイは、ホテル事業のあとを継ぐことになったが、当時、親せきなども中国から呼び寄せて同族経営をしていたため、年長者の意見を尊重し、「プリンス・ホテル」の経営はその年長者がやることになった。


  プリンス・ホテルは何を隠そう、川満がタイに降り立った当時には真新しいホテルで、エラワンホテルやラマホテルとともに草分け的な存在でもあった。一時期は、アメリカ政府が借り切ったこともあり、そのクラシック・モダンな面影も今、まだ残っている。
  さて、その後、日系企業も活発に進出し、黄金期とも言える時代だった。川満も会員が増えるように企画をどんどん出し、クルンテープの発行にも力を入れた。その効果もあって日本人会の会員は45度の角度で増えていった。


  すでに川満は事務局長になる十分な実績はあったが、いきなり「女性の…?」という反対を避けるため、局長代行という形をとった。そののち、正式に事務局長になったのは1990年のことだ。
  活発な川満は、局長の仕事とともにみずからの経験をいかして、「国際結婚友の会」をつくり、タイ人と結婚した日本人女性のための組織をつくった。日本行きのビザ取りで大使館と交渉し、並ばなくても取得できるようにしたときには100人以上の会員にふくれ上がった時期もある。


  局長になっても、江戸っ子気質の気さくな性格で、「人との出会い」を大切にする人だった。そして2001年退職し、と同時にタイ・ロングステイ日本人の会を立ち上げた。タイにロングステイの日本人を!というタイ政府の政策に沿って、定年した日本人が来タイし、その数は徐々に増えていたころだ。同時に、ビザの申請代行で法外なお金をとられた、郊外に何百万バーツの家を買わされた、などの被害が出ていて、そういった人の連絡網としても活用できるよう、川満は考えたのだ。


  今は、それらの会の理事になっているほか、日本人会の懇話会の理事にもな り、また、生け花関連の理事にもなり、「人との出会いを大切にし、楽しく人生を送りながら」をモットーに毎日、動き回っている。
  あと1つ、やりたいなと漠然に思うのは、タイで生まれた日本人ハーフの子どもたちがまとまって、それらの意見を吸い上げられるような組織をつくれないかな、と思っている。それは自分の子どもにもあてはまることだからだ。


  一方、すでにプリンスホテルの経営はスパチャイがしきっているが、そのサポートとして川満も経営の一旦を担っている。
  改装をして値段も上げて…、日本料理も出して…などと自分の考えは持っているが、「こういうアットホームなホテルがあってもいい」となかなかスパチャイは動かない。エアポートリンクのマッカサン駅がオープンされると、タクシーなら3分ほどの距離のため、注目される場所ではあるが、川満が降り立ってから40年以上、プリンス・ホテルもその風格あるたたずまいを今に伝えている。(敬称略)

 2010/12